rashiku-as you are
書きたくなった、久しぶりに。大切なことは、言葉にしてしまうとその繊細さが失われてしまいそうな危うい感じがして、躊躇うことがある。でも、今のこの気持ちは残しておきたくて。
【gumiさんとの出逢い】
私は、ちょうど4年前にgumiさんと出逢った。自然な流れでバーンスリーを教わることになり、細々ながらも定期的にレッスンを受け続けて今にいたる。先生としてとても尊敬しているし、インド古典音楽を中心として純粋に音楽を楽しむことを教えてもらっていることに感謝している。
練習時間がなかなかとれないながらも、少しずつ自分で心地よく感じられる音が出せるようになり、バーンスリーを吹くことが楽しくなってきた。
インド古典音楽に関しては、尊敬するタブラ女子の友人と定期的に練習させてもらっている。私なんてほとんどインド古典音楽を理解していないと言っても過言ではないけど、二人で無邪気に楽しめていると思う。
キールタンの伴奏で吹かせてもらう機会も時々あって、仲間の演奏に自由に音をのせさせてもらうことは私にとってのご褒美的な時間になっている。インド古典音楽のような制約がないのは、例えるなら遠足のおやつの上限が300円だったところ、修学旅行で500円に跳ね上がった上にお小遣いの3000円がプラスされた時の気分と似ている。
この夏には、弁財天を祀る九頭竜神社での奉納演奏にも少し参加させていただき貴重な経験をさせていただくことができた。
【私はバーンスリーが好きだ】
それらとは別のところで、バーンスリーやインド古典音楽の練習を続けていくことは、私にとって人生の学びになっている。別のところという意味は、例え私がバーンスリーの練習をしていない期間があったとしても、その代わりに家族や仕事など他の大切なことに集中しているなら、不思議とその空白がバーンスリーの上達を助けてくれるし、同時に私は家族や仕事との関わりを通して大切なことを学んでいるということ。
私が全人的な学びを深めると必然的にバーンスリーも上達するんだと思う。そこが、音の道のとても面白いと思えるところだ。ただし真面目に練習を積み重ねている人からしたら、けしからん発言かも知れないけどね。
ブレない自分、ニュートラルな自分、まわりのことが気にならないマインドフルな自分。バーンスリーを取り巻く環境ではいつもそんな自分でいることができる。私はバーンスリーが好きだ。縁があったんだなぁ。そんなことを感じながら4年という時間を過ごしてきた。
それがつい先日、自分でも驚くような事実に気づいてしまった。
【先生の存在への気づき】
今週末に開催されるキールタンフェス。gumiさんの運営するPrem Satsang.主催の年に一度のキールタンの祭典だ。そのために、ちょっと難しいキールタンの曲に合わせてバーンスリーで伴奏するための練習をしていた。
けれど何度やろうとしてみてもうまくできるイメージが湧いてこない。苦戦して助けを求めるべく、gumiさんに相談するためにレッスンを受けにいった。gumiさんはいつも通り軽やかでナチュラルな状態で相談を聞き、いくつかのアドバイスをくれた。そして、私が伴奏する予定の曲に合わせて、サンプルとしてバーンスリーの音をのせてくれた。
gumiさんの、情感豊かで繊細かつダイナミックな音が、今までにないくらいに私の心に流れこんできた。その時の感動が今でも覚めやらない。それは多分、初めて私が、これまで私を導いてくれたgumiさんの存在の大きさに気づき、感謝を知った瞬間だった。私はなんて鈍感で感謝を知らない人だったんだろうって。
【感謝】
思えばバーンスリーを教わりはじめてから2年くらいは、普段の私の意識の片隅にほとんどずっとgumiさんはいて、私は追われていた訳ではないけど、いつもどこかでバーンスリーを練習しなくっちゃと思っていたし、様々な面でgumiさんの存在の全てから影響を受けていたのかも知れない。
子どもの頃から私は、他人のルールに合わせると何も理解や習得することが出来なかった。自分独特のやり方でしか何も完成しない。そんな私がとても自由に、バーンスリーを、音の世界を、楽しみながらワクワクしながら、新しい扉を次々とひらき歩いてこれたのは、gumiさんの導きだったんだと気づいた。
このキールタンフェスでは一番活躍する予定で大切にしていたバーンスリーがヒビ割れた時、それをすぐに補修して家に届けようとしてくれたgumiさん。いつも、全ての生徒とバーンスリーと音楽への、分け隔てない深い愛を感じる。そういうところを私はとても尊敬しています。
ありがとう、先生。
私を私らしくいさせてくれる先生。
心の底から感謝を捧げます。
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Yogini Ai
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